「死後世界」の光景

私達は、死の瞬間に身体から脱け出した後、下に横たわる自分の身体を見てから、
「まるでトンネルのようだ」と感じる「次元の境界」を急速で通り抜けます。


「死後世界」の光景その際に見る光景は、光のドームに入ったり、すばらしい色彩を見たり、美しい音楽を聴いたり、たいまつを持った人物が迎えてくれるなど、様々です。

信じている宗教の教祖が両手を広げて出迎えてくれたり、宮殿や庭園のようなビジョン
(幻影)を見る者もいます。

これらは、勿論現実の場所や物質ではなく、本人にとっての「死後の世界」のイメージが
シンボル化された「幻像」にすぎません。


臨死体験研究の権威であり、自らも臨死体験の経験を持つエリザベス・キューブラー=
ロス博士は、この時のことを、次の様に説明しています。

「愛してきた人に迎えられ、指導役の存在たちに迎えられると、よくトンネルと表現されて
いるものの中を通ります。トンネルは、ある者には川であったり、ある者には門であったり、各自にとって、最もふさわしいものとして現れます。


私の個人的な体験でいえば、野生の花でいっぱいの山道でした。というのも、私にとって
天国のイメージが、幼い頃のスイスでの楽しい思い出をもとにしたものだったからです。

このように、死んだあとに見る世界のイメージは、各自が属していた文化によって
決まります


つまり、自分にとって、「自分は死んで、人生と人生の間にある中間生(死後の世界)へと戻ってきたのだ」自覚するために最適なビジョンが、ここで自然に目の前に浮かんでくることになるのです。

なぜなら、物質というものがない中間生では、すべてが思い通りのビジョンとして現れてくるためです。


肉体から離れた直後の場面では、まだ本人が「死後の世界の仕組み」を思い出してない
ことも多いため、指導役の意識体たちが、故人が死を自覚して安らぐために必要なビジョンを、意図的に見せてくれているとも考えられます。

終えたばかりの人生で属していた文化や、信じていた宗教等によって、「その人が死を自覚して安らぐために最適なビジョン」が異なるため、当然ながら、その時に見る(指導役の
意識体から見せてもらえる)「死後世界の光景」も様々なのです。


したがって、

キリスト教徒として生きた後にはキリスト教的なイメージを、
仏教徒として生きた後には仏教的なイメージを、


死後のビジョンとして見ることになります。


私達が「あの世」と呼ぶ心理的・精神的世界は、「この世」でいうような「物質」がなく、直線的に進む「時間」という感覚もない世界です。

そこでは、全てのものが、物質ではなくイメージやビジョンとして現れますが、中間生では、そのビジョンこそが「現実」なのです。


むしろ、永遠で自由な中間生から見れば、人生で私達がとらわれている「物質」と
いう束縛こそが、むなしい一瞬のまぼろしにすぎないと言えるでしょう。


言い換えれば、この物質世界に住んでいる時の私達は、心理的・精神的世界である「死後の世界」(中間生)のことを、脳がつくり出した「まぼろし」だと考え、真面目に取り合わない傾向があります。


しかし、一旦中間生という本来のふるさとに戻ってみた人達によれば、「物質世界」という狭い箱の中に住んでいる自分の境遇を忘れたまま、物質世界を取り巻く広い「精神世界」の存在を否定して物欲にとらわれた生活を送る人々が、とても哀れな存在に見えるのだそうです。

その意味で、私達がとらわれている「物質」こそが、むしろ実体のない「まぼろし」であり、私たちが軽んじている「精神」こそが、むしろ私たちの「実体」なのです。

私達の「精神」とは、「意識体(俗にいう魂)」と表現しているもののことであり、
それこそが、永遠に存在する、私達の真実の姿であると言えるでしょう。


その意識体は、しばしば「光のようだ」と表現されます。私達の本来の姿は「光」であり、
正確な表現ではありませんが、判りやすくいうと、光としての波長の高さ(強さ)によって、
そのまぶしさが異なるようです。

そのため、臨死体験者の証言では、意識体としてのレベルが高いほどまぶしく光り輝き、レベルが低いほど暗く沈んで見えるのだそうです。

それでも、私達は誰もが「光」であり、ただ、その波長によって、輝きの程度が
異なるだけなのです。どのような人も、本来はみな「光」なのです。


飯田史彦 研究室へ ようこそ!(福島大学経済経営学類 教授)
 

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